>  > 読書"Reconfirming the natures of childhood"

サービス二ュースService News

一覧へ戻る

読書"Reconfirming the natures of childhood"

-白梅学園大学・無藤隆教授がノートを公開

画像1

無藤 隆教授が、2019年5月2日木曜日にノートを公開しました。
このテイラーの本は次の人にお勧め。
1つは環境教育・自然教育を新たに考え直したい。
もう一つは子どものロマン主義的理想主義的捉え方への疑問がある。これはもちろん、ヴィゴツキーの流れや社会構成主義、様々なポストモダンの捉え方に近い批判ですが。
加えれば、オーストラリアのアボリジニーとの関わりの反省からの新たな潮流ということ。

なお、ラトゥールからの影響(アクターネットワーク理論、ANT) は今少しずつ広義の教育の世界にも入ってきています。検索すればかなりが翻訳で読めます。

私としては、幼児教育への新たな視点を模索しているわけで、その参考という意味です。なかなか刺激的です。いささか以前の本なので、もっと新しいバージョンがあるのかもしれませんが、この本の範囲では、批判の面白さに比べて、新たな方向はまだ茫漠として理論的なものから実践を位置づけるという段階のようです。そういった個別的で歴史的地理的なことを超えてはいけないということかもしれませんが。

なお、レッジョ・エミリアとかテファリキとかの言及はありませんでした。この歴史的な視点としてはまだ位置づけが難しいのかもしれません。ANTとそれらはつながるような別なもののようなで、私も考えていかねばならないと思います。まして日本の保育でどう考えるかは今後なすべきことなのですが、まだよく分かりませんが。

《読書"Reconfirming the natures of childhood"》

Tayler,Affrica. (2013). Reconfirming the natures of childhood. London and New York:Routledge.
著者はオーストラリアの幼児教育・地理学研究者。ポストモダン(ドゥルーズ)さらにラトゥールに依拠しながら、その流れを、思想史やポピュラー文化またオーストラリアのアボリジニーの文化やそこへの植民地的歴史を参照しつつ、批判的に検討する。

まず幼児教育の歴史を検討する。ルソーの「エミール」以来、ロマン主義的な自然と子ども時代への見方がこの分野をリードしてきた。子ども時代を純粋無垢であり、世間の悪い影響を受けるべきでない時期とする。それには自然そのものの教育が一番である。自然はそれ自体として良きものであり、人間がそれを破壊しないようにして、教育とはその自然の力によるべきなのである。子どもの本来の自然はそこでこそ自ずと伸びていくのである。いわゆる幼児教育(幼稚園)はその流れの中でフレーベル以来進んできた。そしてピアジェ以来の発達心理学は個体主義的な見方の中でそれを支えてきた。また通俗的にはディズニーアニメのように、愛らしい子どもと自然という捉え方が定着した(「バンビ」を見よ)。商業化の中で子ども固有の商品が開発され、それを身に付けてこそ子どもは幸せになり、また将来の力をつけるのだとされるようにもなってきた。

それに対して、著者はハラウェイ(Haraway)やラトゥール(Latour)に学びつつ、子どもの混乱し込み入っておりクイアな共通世界のあり方を再編しようとする。そもそも、自然と文化は切り離せない。子どもの生活と子どもがゴタゴタとした中で他者(他の人間と人間以上のもの)と共に生きる世界とは切り離せない。「自然の子ども」とは近代の西洋的ファンタジーである。自然と文化とを分割し、純粋化の操作でそれを維持しようとすることは無理なのである。自然と子ども時代の状況性の倫理的・政治的・教育的意義を十分に考慮しなければならない。

今2つの倫理的な挑戦がある。第一はますます複雑化し混乱して、境界が曖昧になり、人間と人間以上のものにおける差異が顕著になる時代に平和的に対応することである。第二は生態学的な地球環境の破壊を人間中心のあり方が進めていることに対してどう維持可能性を確保するかである。それらは、子どもが自然の「中で」自然「から」学ぶ(単に「について」ではなく)ことを可能にする必要がある。ヒューマニズムの伝統の中で、子ども中心の見方により個々の子どもに注目し、その個人的ニーズを満たそうとして、良き消費者であり良き起業家となるようにしていく。それは合理的で自律的で主体的な存在に向けての発達を期待するのである。だが、それは子どもが既に絡み合い境界が曖昧でハイブリッドな現代社会の状況を無視している。21世紀の子どもは、関係的で集合的(collecitive)な性向をこそ必要としている。「自然文化」(natureculture)の集合体(collective)との結びつきの感覚が基本となる。(集合体はラトゥールのアクター・ネットワーク理論の用語。)

さらに自然との関係を変えていき、包摂(インクルージョン)と正義の可能性を広げるべきである。そこでは、人間と人間以上のものがともに個々が生きることに含まれてくる。その生きる世界は完全なものではなく、子どもがその様々にもつれた生活の中で有意味な他のプレイヤー(アクタント)のすべてと能動的に出会い認め含み込んでいくのである。そのような自然文化の集合体は既に子どもの生活の中に統合され構成している。既にそこにあり、既に有意味であり、特定の自然文化のもつれの中のプレイヤーであり親族(kin)と共にクイアーな仲間として子どもは生きている。

そこに新たな教育的(pedagogical)可能性が生まれる。それは自然を物化し(reify、「自然」として1つの人格的なものとする)、所有し(科学のもっぱらな領域とする)、領有し(appopriate、本質主義的普遍主義的真実を求める)、感傷的でノスタルジックな扱いをする(好ましく珍しい他であるもの)といったものではなくしていく。子ども時代と自然とを関係的なあり方として扱う。既に絡み合っているすべての他と共に子どもは学ぶのである。そこで、自己と他者と環境へのケアの倫理と場所の倫理を実行する。意味づけを共に行う教育的プロジェクトを実施するのである。

そこで教え学ぶとは、子どもとそのまわりの世界の全ての関係が共に構成しあっていると捉えることである。そこには必ずしも対等で対称な関係ではなく、しばしば非対称で権力が浸透しており、それに気付き、疑問を持ち、変えていくこと、つまりは集合的な責任を持つように向けていく。差異の関係と共存する最も良いやり方について考えていくように励ますのである。

場所の倫理性とは特定の時間と空間の中に位置づけ置かれていることを捉えることである。歴史の中で権力はそういった空間性の中にある(フーコー)。人間と人間以上のものの集合性(assenblage, ドゥールーズ、ラトゥール、バトラーなどの用語)の変容の過程を取り上げる。

なお、実践例として例えば、沼のカエルに気付き、観察し、調べ、また飼ったり、カエル遊びをしたり、劇としたり、といったプロジェクトが紹介されている。